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農学をやってる連中の多くは多分勘違いをしている

自分の知り合いには行きがかり上農学やってるのが多いんだが、彼らに「農学の目的は何ですか?」と訊いてみると「(日本の)農業を振興すること」と答えが返ってくることが多い。というか自分の知り合いは全員そう答えた。これは回答として明らかにマズい。農業の振興は手段であって断じて目的ではないからだ。およそ国から金をもらって研究している人間ならば模範解答は「(日本)国民生活の向上」である。全体の向上が目的なのであって自分の見えている部分=農業を活性化させればいいという物ではない。どうも彼らはミクロな最適化をすればマクロなシステムも無条件に良くなるとなんとなく信じている節があるようだが、普通世の中のシステムは何らかの制約条件*1がついているんであって全体の都合を無視して部分の最適化をかけようとしたらシステム全体では支障が出るのが当然なのだ。こういう視点がないから「農業の振興のためには輸入を完全に止めるべきだという結論しか出ない」*2とかいう世迷言を言うハメになるのである。

// ここから脱線

経済学では昔から割とこういう話に敏感だったようで、比較優位という単語がある。ちなみに比較優位についてぐぐることはお勧めしない。あまり本質的でないことだけ覚えて生兵法はなんちゃらになる可能性大である。初歩のものでいいのでちゃんとしたミクロ経済学の本を読んでその数理モデル(というほど大層なものではないが)を考えてみて、どの程度が適用範囲か考えてみた方がいい。*3

// ここから当て推量

農業の振興が全体の最適化になると素朴に信じているのは農業が基幹産業だったというか国民の八割が農民だった頃の遺風ではないかと思う。確かにそういう条件下でなら農業の振興は国家全体の繁栄ではある。まあこの図式は江戸時代ですら怪しかった訳ではあるが。

*1:投入できるリソースが有限とかね。普通の用語で言えば「予算がない」。

*2:ちなみにこれは京大農学部の某教授が言っていたことだそうである

*3:個人的な見解を書いておくと、投入リソースに対する生産量が一次関数だと考えるのはある領域近傍を見るときだけ有効なんだろうと思う。大域的には比較優位の議論は原始的に過ぎる